「ありのままを受け入れてくれる病院」~前編~ 

《一つの笑顔で決めた看護師の道》

 私は9年ほど前からトライアスロンをやっています。去年は病院から1週間の夏休みをもらって、オーストラリアの大会に参加。水泳を3.8km、自転車で180km、最後にマラソンで42kmを走って完走してきました。これまで、ニュージーランドや中国、マレーシアなど、8カ国ほどの海外大会を含めて、10数回のレースに参加してきました。こう話すと、とても活発で積極的な人間だと思われるかもしれません。でも本当は、子どものころから人間嫌いで、人と接するのがすごく苦手な性格だったのです。

 子どものころの私は、「生物はなぜ生きているんだろう」「呼吸が止まるとなぜ死ぬんだろう」、そして、「生と死の境目は何だろう」などということばかり考えていました。生きること、死ぬことについてもっと知りたいと思った私は、高校を卒業する時、生物学と看護学のどちらかを選ぼうと考えました。ある公立の看護学校の授業料が免除だったこともあり、看護学の道に進むことに決めました。

 多くの看護師志望の人が抱くような、人のために何かをしたいとか、社会で役立ちたいというような意思を、まったく持たずにく看護の道に入ったのです。そんなこともあってか、看護学校での実習はとても辛いものでした。「看護に気持ちが入っていない」「患者さんとの距離が遠すぎる」などと、先輩看護師から厳しく指導されました。人と接するのが苦手で、人と触れ合うことを避けてきたつけが出てしまったんでしょう。「あなたって奇異ね」とまで言われました。こんなことでは、看護師としてやっていけない。もうやめよう。そう思っていた矢先、夏休みに実習で民医連の川崎協同病院に行きました。

 病棟内を案内してもらっていると、階段で一人の看護師さんとすれ違いました。その看護師さんは、明るい笑顔で「こんにちは」と声をかけてくれました。たったそれだけのことと思われるかもしれません。でも、私はそれまでの人生のなかで、そんなにも他意がない純粋な笑顔をしりませんでした。

「笑顔って、人をこんなに元気にさせることができるんだ・・・・・」

 看護師になることへの自信が持てずあきらめかけていた私に、「笑顔でいれば人と接することも楽しいかもしれない」という希望を初めて与えたくれた笑顔でした。私はこのあと、看護師になろうという決意を固めました。そして、川崎協同病院に就職したのです。

《患者さんをストレッチャーでお祭りへ》

 川崎協同病院に入って2年目のこと。外科病棟に高田浩二さんという入院患者さんがいました。がん末期の患者さんでストーマ(人工肛門)があり、酸素吸入をして痛みのためにモルヒネも使っていました。社会情勢などをよく知っているインテリ風の人でしたが、口うるさくて怖くて、私にはちょっと敬遠したいイメージもありました。

 ある日この高田さんを、何人もの先輩看護師たちがストレッチャーに乗せようとしています。どこへ連れて行くのだろうと思って見ていると、先輩がお祭りのはっぴを手にこう言いました。

「今から町会のお祭りに行くのよ。あなたも高田さんにはっぴ着せるのを手伝って」

 私の頭の中は、混乱しました。

 〈お祭りって・・・高田さんは末期のがん患者さんだよ。衰弱して意識もうろうとなてきてるんだよ。なんでストレッチャーに載せてまで、お祭りに行かなくちゃいけないの?わけがわからない〉

 高田さんが、お祭りに参加するのが大好きだということは知っていました。入院してからの車いすに乗って何回か地域のお祭りに出ていき、「もうすぐ1000回になるんだ」と自慢げに話していました。

 そういえば、ナースステーションの壁に何日か前から、「お祭り有志募集」という紙が貼られていました。夜勤明けや勤務外の看護師が集まって、ボランティアで高田さんのお祭り行を手伝っているのです。勤務中だった私は高田さんにはっぴを着せながら、なんでこんあことまでするんだろうと不思議に思っていました。

 でも、お祭りから戻ってきた高田さんは、満足そうな笑顔をしていました。高田さんばかりではありません。付き添って一緒に行っていた奥さんも、連れていった先輩看護師たちもすごく楽しそうで、みんなキラキラと、輝くようなうれしそうな笑顔なのです。

 そのみんなの笑顔を見た瞬間、私は、先輩看護師たちのやろうとしたことも意味がわかったような気がしました。

《「笑顔って素晴らしい」と》

 高田さんが亡くなったのは、それからわずか2日後。霊安室へ駆けつけると、先輩看護師たちも集まっていました。高田さんの奥さんは、とてもいい笑顔で遺体のそばに立っていました。きっと、亡くなる間際まで、高田さんが自分のやりたいことをやり通せたので、満足してくれていたのでしょう。奥さんは「ありがとう」と言って、一人ひとりの看護師を順番に抱きしめてくれました。一度もお祭りについていったことがない私のことも、優しく抱きしめてくれました。私は、もっと高田さんが満足する看護をしておけばよかったとちょっと後悔しながら、感動していました。

 こんな経験は一度だけではありません。

 やはり末期のがん患者だった木村勇さんは、気難しくてみんなから怖がられていました。その木村さんがある時、「最後の願いがある」と先輩看護師に話しました。

 「俺は、東京湾アクアラインの工事を手がけたんだ。だが、開通してから一度も見たことがない。死ぬ前に1回でいいから、自分の目で見たいんだ」

 患者さんがこういう要望を口にすれば、先輩看護師たちの出番です。この時は、主治医が車を運転し、二人の非番の看護師が付き添って、アクアラインを通って海ほたるまでドライブに行ったそうです。帰りにはファミリーレストランに寄って、ビールまで味わってきたといいます。病棟に帰ってきた木村さんの、「やり遂げた」という満足そうな表情。怖い木村さんが、こんなに穏やかな顔になるのだと知って、私は「看護師って大変だけど、いい仕事だな」という気持ちをかみしめていました。

 このころまでの人生で、私は心の琴線に触れるような経験をあまりしたことがありませんでした。看護師になってからも、必要だと思う仕事を四角四面にこなしてきただけでした。「あなたのやり方って、教科書通りすぎてつまらないわね」と言われたこともありました。そう言われても、何のことだかわかりませんでした。でも、患者さんの希望をどこまでもかなえようとする先輩看護師たち、亡くなる間際に満足そうな表情を見せる患者さんたち、すべての人たちの笑顔に、私の心は揺さぶられていました。

〈私も本当は、こういう看護が好きなのかも〉

 そう思い始めた私をさらに大きく変えたのは、私自身の父親の協同病院への入院でした。

・・・・後編に続く

全日本民医連「看護10ストーリーズ」ー輝くいのちの宝石箱 より抜粋 

川崎協同病院 3階病棟看護師IMさん

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